2012/09/26

フリーゲームのアイデア4

ぼんやりとネタを考えます。


16. 電池つないで
朽ち果てた迷宮に、たくさんの電池切れのロボットが眠っている。

あるとき、1体のロボットが、1つの電池によって目を覚ます。
彼は迷宮の中をさまよい歩き、別のロボットへ自分の電池を投げ渡して、眠りにつく。
電池を受け取ったロボットは、彼の意思をついで目を覚ます。

ロボットたちは、1体ずつ目覚め、1つの電池をリレーしていく。
彼らは何処に向かって電池を運んでいるのだろう。

という探索パズルゲーム。
電池の受け渡しで、操作キャラクターが移り替わっていくパズル。


17. 「C」
変わった形の機体を使った、360度アリーナシューティング。

プレイヤーは、「C」の形をした戦闘機に乗る。
「C」の形は、外部とつながる穴と、それ以外のシールド部分を持っている。

C→  穴の開いているほうが前方。

プレイヤーは、穴から弾を射出し、敵を攻撃する。
敵からの攻撃は、シールド部分を使って防御できる。
ただし、弾を穴に打ち込まれてしまうと、戦闘機は破壊される。

「前を向いて攻撃し、そっぽを向いて防御する」という遊び。
タイムクライシスの発想。

穴のサイズが変わると、攻撃、防御のボリューム感が変わる。
アイテムを穴から回収したりできると良いかも。


18. 注文のおかしい料理店
ランダム文章生成アプリの一案。
人間の想像力を超えた、オリジナルな料理をデタラメに表示。
記法は、食材 + 食材 + 調理 とか。

・小エビとヤングコーンのかき揚げ
・大根とみょうがのあっさりカレー
・鶏もも肉とナタデココのホワイトソース煮

どんな料理でも、とりあえず味を想像することができる。
普段使っていないけど、おもしろい人間の能力。


19. 瞬間旅行者
グーグルアースを使った遊び。

1.グーグルアースを起動し、地球スケールで地図を表示しておく。
2.「東京駅」などのお題をだす。
3.最速で東京駅までピンチアウト/フリック移動した人が勝ち

もしくは、高速でフリック操作をしながら各地のチェックポイントを回る、という遊び方はどうだろう。
正確なフリック操作や、地図の理解、土地勘が問われる。
新手のレースゲーム・オリエンテーリングゲームという感じ。
シンプルなアイデアなので、もうある気がします。


20.  Mr. LED
LEDの電光掲示板をモチーフにしたゲーム

プレイヤーは、電光掲示板の1点だけになりきる。
ボタンを押しているあいだは点灯、ボタンを離すと消灯。

左右、上下から文字が流れてくるので、タイミングを合わせて点灯・消灯させ、
電光掲示板の欠けを防ぐ、というタイミングゲーム。
スポーツ観戦のウェーブの一員になるような感じ。

ゲーム内ミニゲームとしてちょこっと遊ぶと良いかも。


2012/09/24

笹公人さんの短歌と念力少女の復活

歌人である笹公人さんの著書を一気読み。

「念力家族」「念力姫」「念力図鑑」「抒情の奇妙な冒険」「笹公人の念力短歌トレーニング」……
どれもこれもグッとくる作品集でした。



笹さんの作風のひとつに、「非現実世界をよむ」というのがあります。


   注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく


   獣らの監視厳しき夜の森で鏡をはこぶ僕たちの罰


   金星の王女わが家を訪れてYMOを好んで聴けり


現実にはない情景を歌にしています。
それでいて、
あー金星の王女だったら絶対YMO聴くよねえと、異次元の納得をさせられてしまう。
笹短歌の面白いところです。




ここで強調すべき点があります。
笹さんの作品は、設定が良いのではなくて、設定の扱いが素晴らしいのだということ。


例えば、念力少女、というのは既に市民権を得ている表現であり、
笹さんの発明や成果ではありません。

さらに言えば、「念力少女」という単語を用いると、斬新さよりも、
一人ひとりがぼんやりとイメージできてしまうベタな表現として機能します。
つまり、陳腐な単語です

念力少女を扱うということは
・使い古されたイメージ
・しかも現実に存在しない
という二重苦を背負うことになります。

ただし、ここには勝機もあります。
・一人ひとりが使い古されたイメージを持っている、ということは
 このイメージを別の視点から定義し直すことで、驚きを与えられるかもしれない。
・また、現実に存在しないからこそ、
 あらゆる既成概念から解き放たれたような空想を付与できるかもしれない。

ハイリスクハイリターンな縛りプレイです。



そうして、

念力少女に、「注射針を曲げる」「医者が戸惑い少女が笑う」 という新たな関係性が
付与されます。
誰もが気づいていなかったけれど、どこか馴染みのある、知っていたような感覚。
いままで不確かで陳腐だったイメージに、生命が点ったように感じられます。

なるほど、念力少女ならやっちゃうかも、という不思議な感動。
知り合いの、隠れた一面を垣間見たような嬉しさもここには生まれています。




笹さんは、
「あるある」ではなく、「あるかも」が人を感動させる、
といいます。
現実にあるかどうかではなく、信じられるかどうかが価値を決める。
物凄く納得できるところです。

前者は「知識」、後者は「知性」の領域ですね。

「子供はものを知らないだけで、知性はある」 とは宮本茂さんの談ですが、
万人に受け入れられるものを作るには、
知識でなく知性に訴えるような表現を目指すべきだというのは共通するところです。



相対性理論の作詞との類似性を論じたりもできそうですが、
いまのところ余白(やる気)が足りません。
引用だけしてみます。

   わたしもうやめた 世界征服やめた
   今日のごはん 考えるのでせいいっぱい    (『バーモント・キッス』)

なんかわかります。
現代特有の感覚なのかも。


副読として、以前の記事をリンクしておきます。
「ゲーム的なアート」と「ゲーム」を分かつもの