「ゲーム的なアート」について考えてみます。
1.
佐藤雅彦さんや小林賢太郎さんや筒井康隆さんの作品を、
仮に「ゲーム的なアート」と呼んでみます。
彼らは、自ら生み出したルールに基づいて作品を構築します。
ピタゴラ装置でも、アナグラムでも、虚人たちでも。
ルールの構築と運用は、まさにゲームに類似するところです。
■ 彼らはゲームデザイナーである。
■ 彼らの作品はゲームを内包している。
ただし、彼らの作品はゲーム的ではあるけれども、映像であり、演劇であり、小説であり、
ゲームではありません。
決定的に違うのは、
■ 彼らは、自分で作ったゲームを自分でプレイしている。
という点です。
2.
ゲームをプレイするというと、「ゲーム実況」というジャンルが思い浮かびます。
ゲーム実況は、ゲームでなく「映像作品」になります。
同様に考えてみましょう。
■ ゲームをプレイした結果は、ゲーム以外の媒体に変化する。
- ゲームプレイを録画すれば映像に (佐藤雅彦)
- 人前でゲームをプレイすれば演劇に (小林賢太郎)
- ゲームの進行を筆記すれば小説に (筒井康隆)
- ゲーム結果のスクショをとれば絵画に (エッシャー)
このように、自作ゲームのプレイ結果を、別の媒体で記録したものが、
「ゲーム的なアート」なのではないかと考えました。
彼らの作品は、ゲームを含んでいるけれども、
ゲームルールの立ち上げから、ゲーム結果が一点に収束するところまで、
すべて責任を持って処理しきっているところが特徴です。
3.
では、
- 「ゲーム的アート」が、なぜここまで我々の心を打つのか。
- また、「ゲーム」本来の表現力を超えて感じられるのはなぜか。
を考えてみます。
これにより、ゲームがどこを目指すべきかわかるかもしれません。
「ゲーム的なアート」が人の心を打つ理由は、わりとはっきりしているように思います。
■ 人間は、「ゲームルールの素晴らしさ」ではなく、
「ゲームルールの運用の素晴らしさ」に感動する。
サッカー観戦で考えてみます。
サッカーを観ていて、サッカーというゲームのルールに感動する人はあまりいません。
しかしサッカーのルールの中で生み出されるスーパープレイには、人を感動させる力があります。
芸術的プレイ、とよく言われるように、ゲームプレイはアートになり得るわけです。
もちろん、良いルールあってのスーパープレイ、というのは当然なのですが
スーパープレイがあって初めて、
サッカーというルールの絶妙なバランスが見える、というのが面白い所ですね。
■ 良いプレイが生まれれば、
ゲームルールの素晴らしさも伝わる。
4.
以上を踏まえて、
「ゲーム的なアート」の特徴は以下であると考えます。
■ゲームルールの提案だけでなく、ゲームのプレイを含む。
■作者のスーパープレイが、見る人に感動を与える。
■作者のスーパープレイが、ゲームルールの素晴らしさを強調する。
ポイントは、スーパープレイありきの表現手法であるというところです。
ルールが素晴らしくとも、その素晴らしさを伝えるには良いプレイが必要です。
彼らの作品に触れて、「面白いルールだなー」と素直に感じられるのは、
彼らが、自分の考えたルールに基づき、
自分自身で華麗にプレイして、面白いルールなんだというのを証明しているから
面白く感じるんですね。
5.
「ゲーム的なアート」の、表現媒体としての強さが明らかになりました。
では、「ゲーム」はどうなのだろう?
■「ゲーム」においては、プレイヤーは不特定多数であり
ルールの面白さは各人が証明せねばならない。
わけですから、上記で書いてきたようなアートの論理が使えません。
すると、
- ルールの面白さをどうすれば自主的に発見してもらえるか、
- どうすればスーパープレイを励起できるか、
といったところを考えていかなければなりません。
ゲームの弱点が垣間見えてしまいました。
次回は、この内容を踏まえて
ネガ的/ポジ的 デザインについて考えてみようと思います。
書けるかなあ。
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