歌人である笹公人さんの著書を一気読み。
「念力家族」「念力姫」「念力図鑑」「抒情の奇妙な冒険」「笹公人の念力短歌トレーニング」……
どれもこれもグッとくる作品集でした。
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笹さんの作風のひとつに、「非現実世界をよむ」というのがあります。
注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく
獣らの監視厳しき夜の森で鏡をはこぶ僕たちの罰
金星の王女わが家を訪れてYMOを好んで聴けり
現実にはない情景を歌にしています。
それでいて、
あー金星の王女だったら絶対YMO聴くよねえと、異次元の納得をさせられてしまう。
笹短歌の面白いところです。
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ここで強調すべき点があります。
笹さんの作品は、設定が良いのではなくて、設定の扱いが素晴らしいのだということ。
例えば、念力少女、というのは既に市民権を得ている表現であり、
笹さんの発明や成果ではありません。
さらに言えば、「念力少女」という単語を用いると、斬新さよりも、
一人ひとりがぼんやりとイメージできてしまうベタな表現として機能します。
つまり、陳腐な単語です。
念力少女を扱うということは
・使い古されたイメージ
・しかも現実に存在しない
という二重苦を背負うことになります。
ただし、ここには勝機もあります。
・一人ひとりが使い古されたイメージを持っている、ということは
このイメージを別の視点から定義し直すことで、驚きを与えられるかもしれない。
・また、現実に存在しないからこそ、
あらゆる既成概念から解き放たれたような空想を付与できるかもしれない。
ハイリスクハイリターンな縛りプレイです。
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そうして、
念力少女に、「注射針を曲げる」「医者が戸惑い少女が笑う」 という新たな関係性が
付与されます。
誰もが気づいていなかったけれど、どこか馴染みのある、知っていたような感覚。
いままで不確かで陳腐だったイメージに、生命が点ったように感じられます。
なるほど、念力少女ならやっちゃうかも、という不思議な感動。
知り合いの、隠れた一面を垣間見たような嬉しさもここには生まれています。
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笹さんは、
「あるある」ではなく、「あるかも」が人を感動させる、
といいます。
現実にあるかどうかではなく、信じられるかどうかが価値を決める。
物凄く納得できるところです。
前者は「知識」、後者は「知性」の領域ですね。
「子供はものを知らないだけで、知性はある」 とは宮本茂さんの談ですが、
万人に受け入れられるものを作るには、
知識でなく知性に訴えるような表現を目指すべきだというのは共通するところです。
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相対性理論の作詞との類似性を論じたりもできそうですが、
いまのところ余白(やる気)が足りません。
引用だけしてみます。
わたしもうやめた 世界征服やめた
今日のごはん 考えるのでせいいっぱい (『バーモント・キッス』)
なんかわかります。
現代特有の感覚なのかも。
副読として、以前の記事をリンクしておきます。
「ゲーム的なアート」と「ゲーム」を分かつもの
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